子どもをコントロールする母親となった私に放った、カウンセラーからの愕然とする言葉とは。

女性水辺に座っている


長男は、おとなしく口が重い子でした。

周りの子たちが、活発で、自信に満ちた笑顔でお友達とコミュニケーションをとる姿は輝いて見えて、だんだんと、長男のお友達とのやりとりを不安な顔で見張るようになっていく私。

お腹が弱く、登校の前はぎりぎりまで
トイレに籠る長男。

学校でいじめられているのかしら。。
それとも、ずっと一人ですごしていたり
するのかも。。

学校という見えない社会の中で、人間関係を上手くやっていけ不安でてるのか、私の不安はつのるばかり。

ときには、夫に不安をぶつけ、先生に電話まですることもありました。

おっとりとしてはいいるものの、何を考えているのかわかりずらい長男にイライラをつのらせる私。

ときどきランチをしたりする仲の良いママ友達が何人かいたにもかかわらず、どうしても、本当の苦しい気持ちや心配は相談できずにいました。

誰かに聞いて欲しい。
わかってほしい。

そして心配で心配でしかたがない。

だんだんと私の心配は、自分のむきだしの感情ばかりが顔を出し、怒りからイライラへ。

イライラから、悲しみへと変わっていき、自分は、なんてダメな母親なのだろうと自責の念がつよくなっていきました。

母親として一喜一憂して過ごす日常の中で、自分の感情をコントロールすることが出来なくなっていった私は、何かあると長男を責めたて、その後、自分の身体をガンガンとこぶしで叩くという自傷が始まりました。

限界を感じた私はとうとう、カウンセリングを受けることになり、あるひとりの男性のカウンセラーに出会います。

私は、その時、初めて自分の本当の気持ちを誰かに話すという経験をしました。

やっと、だめだとわかっていてもやめられなかった子ども責めと自分責めの苦しみ。

そして、私自身の生い立ち。

カウンセラーの先生は、私にこう言いました。

「よくひとりでがんばってきましたね」

「あなたはアダルトチルドレンです」
「苦しいのには、わけがちゃんとあるんですよ」

「そして、長男の子はなにも悪くないし、お子さんに幸せなってほしいと願うなら、まったく逆のことをしてしまっているんです」

「理想を子どもに求めるような心配は呪いなんです」

心配は呪い。

「まずは、お子さんを信じましょう」

「お母さんは、”祈るひと”なんですよ」
見守り、そして祈るひと。

とても、ドキッとする言葉ですが、
とても腑に落ちました。

私がしていることは、本当に長男のことを思っての心配ではないことに、どこか気がついていました。

でも、やめられなかったのです。

湧き出てくる心配は、私の理想通りでないことへの吐き出す不満と、子どもを信じられない自分のふがいなさへの怒りだったのです。

そのとき、やっと、長男の個性はそのままでいい。

私のものではない。

そして、抱えている深い問題を解決しなくてはいけないのは私なのだとわかりました。