心理カウンセラーのゆいかわ とわです。
私の生い立ちプロフィールです。
少し長いですが、ご興味いただけましたら、読んでみてください。
もくじ
①結婚し、二児の母となった私のこだわり育児は、子どもへの呪いへと変化を遂げていきました。
②仕事一辺倒の父、精神病で苦しむ兄、すぐに取り乱す母の狭間で大人を演じた幼少期。
➂私も苦しんだ、喘息とアトピー性皮膚炎。エスカレートし続ける母の、私への過干渉が私の自由を奪い続ける。
④結婚、初めての妊娠、流産、卵巣嚢腫の発覚と手術。
⑤長男誕生の喜び!そして、母としての葛藤の日々の始まり。
⑥長男の集団生活の始まりは、私の劣等感との戦いと化しました。
⑦二回目の、卵巣嚢腫の手術と次男誕生。
⑧強烈なイライラから、動悸と焦燥感に襲われた私は、初めての心療内科への受診をしました。
⑨まさか‼夫が適応障害(うつ症状)で仕事に行けなくなりました。
⑩やっと出会えた場所。信頼できるカウンセラーとの出会い。
⑪現在の、私のカウンセラーとしての活動と願い。
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結婚し、二児の母となった私のこだわり育児は、子どもへの呪いと変化を遂げていきました。
子育てをとおして、強烈なイライラと
押し寄せる強い不安。
お腹が燃え上がるような怒りを経験し、子どものことで、不安が増えると、過干渉の毒親となり、子どもをコントロールし始めました。
子どものありのままの姿を、受け入れることが出来ない母としての私。
子どもの日々の出来事に、一喜一憂し、子どもたちの世界に、踏み込んでいくことがやめられない私の過干渉は、どんどん加速していきました。
言葉が重い長男が、同級生からかわれていても言い返せない姿を見ると、長男に言い返せ!と叱りました。
次男が幼稚園の頃、周りの子に比べて、極端に発達の遅れがあったときも、何冊も見境なく教育書籍を読みあさり、次男への母親としての手助けよりも、次男の発達の遅れの原因ばかり探し続けていました。
どうして私ばっかり。。
子どもたちが成長し、友達関係もより複雑になりはじめると、不透明さがより私の不安をあおりました。
どうしてうちの子は、こんなにも問題だらけなの!!!
問題が起こるたびに、子どもを責めました。
さんざん責め終わったあとに、自分は
どうして、周りのママたちのように
子育てを楽しめないのだろう。。と
ひどく落ち込み、イライラして涙が止まらないこともありました。
よく考えたら、自分にも自信がなく、
自分の子ども時代も、コンプレックスだらけ。
自分の子ども時代のやり直しを、
今の自分の子どもたちに押し付けていることなど、まったく気が付けていませんでした。
心配は呪い。
のちに、私は心身共に体調を崩し始めます。
子どもに、『心配という呪い』をかけ
続けた私は、自分の精神を追い詰めることになりました。
子育てを楽しむどころか、子育てこそが、私を苦しめるものになっていました。
私の、理想のお母さん像は、こんなお母さんじゃなかったのに。。
私の思いとはうらはらに、お母さんとしての理想は、遥か彼方へと、どんどん離れていきました。
仕事一辺倒の父、精神病で苦しむ兄、すぐに取り乱す母の狭間で大人を演じた幼少期。
父、母、兄の4人家族。
1971年、東京生まれ。
仕事一辺倒の父と、重い喘息を患い、過干渉と心配性気質の母に育てらました。
そして精神疾患を持つ兄。
私が小学3年生の頃から、しだいに家の中が荒れ始めました。
中学生の兄の病状が重くなってくると、家の中に緊張がはしります。ガラスが割れる音。
兄の怒鳴り声。
壁にものが当たる音。
家に響きわたる
母は、兄が病気の苦しみから暴れだすと、逃げまどい、兄が暴力をふるうと、叫び声をあげます。
幼い私は足ががくがく震え、ただそこで母と兄のやりとりを見ていることしかできませんでした。
取り乱す母。
その頃
の母は、喘息発作が起こりやすく、救急車で救急搬送されることも、何度もありました。
母が取り乱すと、また喘息発作が起きて、母が死んでしまうじゃないかと、私は不安でたまりませんでした。
昼夜問わず、突如として兄は苦しみ、暴れまわります。
私は小さな物音にも、とても敏感になりました。
ある休日の昼間。
突如として兄が暴れ狂い、母がひどく取り乱し、母と私がとっさに、裸足のまま、玄関の外に逃げたことがありました。
すると、家の目の前の道路で、近所の子どもたち十数人がドッチボールを楽しんでいるところでした。
みんなの視線が、裸足で玄関から出てくる私たち親子に集まりました。
同級生たちに見られた。。
私は、恥ずかしさと、逃げている恐怖が入り交じり、なんとも言いようのない気持ちになりました。
小学生の私は、どうすることもできず、ただただ、自分の感情を押し殺し、そのときをやり過ごすほかにありませんでした。
その頃から、私の中で何かが変化していきました。
何かが、壊れ、吹っ切れたような気持ち。
母が、泣き叫びながら目を見開き、取り乱すようなことがあっても、私はもう逃げ出すのをやめました。
もう、みじめな思いをしたくなかったし、苦しむ兄を誰が救ってくれるんだろうと、子どもながらに感じ、両親に不信感を抱き始めたのもその頃です。
今思えば、その頃から親子逆転が起き始めていました。
私も苦しんだ、喘息とアトピー性皮膚炎。
エスカレートし続ける母の、私への過干渉が私の自由を奪い続ける。
私も母の体質を受け継ぎ、喘息とアトピーに苦しみました。
季節の変わり目の頃には、親子で喘息の発作で入院したこともありました。
そんなこともあり、母は私の体調を気にするあまり、どんどん過干渉がエスカレートしていきます。
私は、母の私への心配が、煩わしくてしかたありませんでした。
何から何まで干渉しないと気が済まない母は、学校の用意から、何からすべて母が取り仕切っていました。
私が、必要と思うものは、母に言う前に用意されていて、先回りして私が困らないようにとしていました。
兄の病気のことで、思うようにいかない子育てに対して、母は、私が必要とすることを先回りしてやってあげることが、どこか私へのゆがんだ愛情だったのかもしれません。
でも、私には、そのゆがんだ愛情がただただ、苦しいものでしかありませんでした。
私は、自由になりたかった。
母の愛は、私をどんどん追い込み、のちに母との間で大きな確執がうまれることになります。
私の子ども時代は、重く抑え込まれた感情を抱えたまま、どんどん過ぎていきました。
そんな私にも、大きな転機が訪れます。
高校卒業とともに、やっと、私は家を出て、寮生活が送れるようになりました。
私が高校生になっても、相変わらず、家の中は荒れることもしばしばありました。
病気で苦しむ兄。
ここまでの十数年間の間、父や母が何もしなかったわけではありません。
父が、ひとり泣いているところも見たことがあったし、母も母なりの愛情を兄へ向けていたのだと感じます。
家族が笑っている時間もあった。
でもこれまでに、どこかに強く押し込めていた私の感情や思いは、なくなってはいませんでした。
後に、私の母としての子育ての日々の中で、それはむくむくと黒いかたまりとなって、苦しめられることになります。
結婚、初めての妊娠、流産、卵巣嚢腫の発覚と手術。
私は、専門学校を卒業したのち、数年後に趣味の教室で出会った4つ年上の夫と結婚することになります。
結婚から、4年後に妊娠がわかりました。
しかし、初期の稽留流産とわかります。
ショックと身体への負担が大きいものでした。
そんなとき、初めての婦人科の受診だったこともあり、病気が見つかりました。
卵巣嚢腫。
10㎝以上に両方の卵巣が腫れているとのことでしたので、早急な手術が必要でした。
手術前の説明では、両方の卵巣の嚢腫を取り除くため、お腹を開けてみないことには、卵巣が残せるとは言い切れないと言われました。
流産のあとの、卵巣の全摘出の可能性。。
不安ばかりが襲いましたが、流産した子が教えてくれた病気を治すことだけに専念するように努めました。
無事に手術が終わり、手術室で麻酔から覚めた私に先生が、「右も左も少しずつ残せたからね」と伝えてくれました。
やっと、何かから解放された気持ちになり、安堵したのを覚えています。
長男誕生の喜び!
そして、母としての葛藤の日々の始まり。
待ちに待った、長男誕生。
なにより、無事に生まれてきてくれたことに感謝。
そして、何とも言えない安堵感。
だんだんと時間が経つにつれて、心から幸せを感じました。
初めて育児。
私の理想は、いつも笑っていて、赤ちゃんを愛で包み、自分も満たされている人。
どこかで見かけたお母さんが、私の理想のひとになった。
ドキドキと喜びが、日々のなかで輝くときもあれば、鬱鬱と疲れと心配が入り交ざる日も
増えていきました。
私は自己肯定感が低く、知らない間になにもかもが劣っているという
過小評価してしまう自分の育児に、いきづまりを感じ始めていました。
子どもはかわいくて、愛おしいのに、他の子との成長の差が気になったり、なかなか寝てくれず
寝てもすぐに起きてしまう長男に、イライラして自己嫌悪に陥ることも。
焦れば焦るほど空回りして、涙が出てきて、子どもと一緒に泣いていました。
出産時期が一緒のママ友達もいて、楽しく過ごせるときもあったし、充実感を感じることも
あったけれど、ずっと心の奥に、なにかわからないモヤモヤしたものが渦まいて、苦しくなって、
気持ちが沈みます。
どんどん理想から遠のいていく現実。
疲れ果てて、一日を振り返ることもなく、ただただ日々に追いかけられて
いるような毎日を過ごしていました。
長男の集団生活の始まりは、私の劣等感との戦いと化しました。
長男のプレ保育が始まります。
私の幼少期は、母が体調を崩し保育園を3か月でやめることになったため、昼間は母と二人きりで過ごしていたせいか、小学校に入学しても、集団生活に慣れるまで、とても時間がかかりました。
とくに早生まれの私は、周りの同級生は自分より何倍も優れているように感じたし、器用に立ち回るその姿に羨望のまなざしを向けていました。
だから、長男の集団生活においては、自分が今までも感じ続けてきた自分の劣等感を、子どもに重ねてはいけないと、気をつけるようにしていました。
でも、おとなしく言葉が重い長男の未来をイメージすると、心配なことばかりが頭をよぎります。
その頃の私は、育児書を手放せないほど読み漁り、周りの子と比べては焦りと不安を感じ、理想と正解を追い続けることが、やめられない頭でっかちな母親でした。
活発な子と長男を比べ、活発な子どもを持つお母さんへ羨望のまなざしを向ける母としての私。
ありのままの長男を受け入れ、その子の持つ唯一無二の個性を育ててあげられるような
理想の母親とは、ほど遠い私だったのです。
小学生の時の劣等感は、そのまま母となった私の中に生き続け、ずっとくすぶり続けていることに、またイライラする私。
ずっと抜けられない暗いトンネルを歩き続けるしかありませんでした。
二回目の、卵巣嚢腫の手術と次男誕生。
二人目の妊娠を望んでいた頃、卵巣嚢腫の定期健診で、再び卵巣が腫れていることが発覚。
二人目の子を妊娠する前に、手術をしておかないと、捻転を起こす可能性があるということで、
二回目の卵巣嚢腫の手術を受けることとなりました。
一度、経験はしていたものの、幼少の子どもの生活の心配も重なり、年齢的にも
体力の回復に時間がかかりました。
その後、次男を妊娠。
その後無事に出産。
育児もさらに、忙しいものとなって来ました。
私の体質を、そのまま受け継いでしまった次男は、ひどいアトピーと喘息持ち。
薬と吸入をどんな時も持ち歩かなければなりませんでした。
そして、次男が2歳になったころ、肺炎で入院することになってしまいました。
虚弱体質の次男の育児に追われる私は、とうとう過干渉の母をたよってしまいます。
母との衝突も増えていきます。
次男の体調も回復し、無事に退院。
それからというもの、母は度々手伝いに来てくれるようになります。
過干渉の母の手伝いは、次第に限度を超え始めます。
どうにもならずに、ついつい頼んでしまった私が悪い。
少しでも助けを拒むと、母は怒り感情をぶつけて来ます。
私もまた、言い返す。
情けないと思いながらも、喧嘩のたびに涙が出てきて、自己嫌悪を繰り返す日々でした。
助けを求めてしまったことに、後悔しても、もう遅かったのです。
強烈なイライラから、動悸と焦燥感に襲われた私は、初めての心療内科への受診をしました。
母との衝突が日に日に増してきて、相変わらず徹夜続きで、仕事に追われる夫にも私はなかなか相談できずにいました。
鬱鬱とした気分と、強烈なイライラに、ときどき市販の薬を服用していましたが、その日は症状が落ち着きません。
動悸が止まらず、今まで感じたことのない焦燥感。。。
胸のあたりがモヤモヤとして、頭の中まで立ち上ってくるかのようでした。
もー--!!!
どうにもならない!!!
キ————!!!
お腹の中が燃えているような怒り。
夫に当たり、子どもに当たり、当たり散らしている自分にまたイライラして、自分の腕を、ガンガンと思いっきり叩きまくりました。
痣ができるほど叩き、涙が出てきます。
もう、何の感情なのかすら、わかりません。
一通り、イライラを家族にぶつけると、朦朧として、自分の部屋でひとり寝転がり、ただ呆然としていました。
遠くで、聴こえる家族のたわいもない会話が、孤独感と自分への嫌悪感を増長させ、腹ただしさと、虚無感に襲われます。
翌日、とうとう私は診療内科を受診しました。
心療内科では、イライラが穏やかになるお薬をもらい、自分でお薬を調整すようにと言われました。
特に症状の病名はつかず、子育てなどのストレスと持っている性格的なものから来るものというような、やんわりとした診断。
感情の起伏の激しさに、ひととおり感情をさらけ出すと異常に疲れ、翌日も寝たきりになるほど疲弊していました。
子育てのストレスで心療内科に通うなんて、やっぱり私は駄目なんだ。
こんなに、感情がぐちゃぐちゃで、自分の感情に振り回されている私のような母親で子どもがかわいそう。
どうして、周りのお母さんのように、ちゃんと出来ないのかな。。
何が正解なのか、どうしたらいいのかわからなくなっていました。
まさか‼夫が適応障害(うつ症状)で仕事に行けなくなりました
忙しすぎる子育ての毎日は、泣いて、笑って、怒って、悩んで、落ち込んで。。
長男、中学生。
次男も小学生になっていました。
私は、パートをはじめました。
仕事中は、子育てから離れ、程よい緊張感があり、忙しいながらも生活にメリハリが出てきました。
子どもたちも学校、習い事と忙しくしていました。
そんな、ある日の朝。
またもや、驚くことが起こります。
「もう、オレ電車に乗れないんだ。」
私がパートに出かけようと慌ただしくしていると、夫が言ったのです。
これまで何年も、締め切りに追われる、映像関係の仕事に就いていた夫は
終電帰りは珍しくなく、徹夜も定期的にしていました。
身体への負担は、年々歳を重ねるごとに増えて、気にかけてはいたものの
私も慣れてしまっていました。
夫は、これまでも無理を重ね、我慢してがんばっていたのだと思います。
そして、少し前から異変が起きていました。
数日前から、朝お酒を少し飲まないと、電車に乗れなかったというのです。
限界ギリギリまで、がんばってくれた夫は、その日から、会社に行けなくなりました。
「えっ‼」
朝の夫の言葉を聞いた私は、とても動揺しました。
昨日までの当たり前だった日常が、急ブレーキをかけるかのように止まりました。
頭が回らない状態で、夫に話を一通り聞いたあと、私は車でひとり出かけました。
行先は、とっさに思いついた、地域のハローワーク。
受付まで行くと、私は、そのままを話していました。
気を利かせてくださり、リタイヤしたあとにボランティア活動されている初老の男性が、私を二階のお部屋に案内してくださり、ゆっくり私の話を聞いて下さいました。
「奥さん、それは大変だったね」
「でもね、僕は旦那さんが今やっと休めてよかったと思うよ。」
「僕の知っている人はね、無理に無理を重ねてしまって、寝室の中を独り言をつぶやきながら、一日中歩き回っているんだ。」
「だから、今、まだ旦那さんは大丈夫だよ。ゆっくり、休んでもらってさ。。あとは、流れにまかせるしかないよ」
突然やってきた私に、ただただ、やさしく、温かく、そう話してくださいました。
夫は、1年間ほど心療内科へ通いながら、ゆっくり過ごし、後半は散歩が日課となりました。
目まぐるしく過ぎていく時の中で、夫とゆっくり話す機会になりました。
家族にとっても苦しい一年間でしたが、家族が元気に日常を穏やかに過ごせることの尊さを感じた出来事でもありました。
夫はその後、トラックの運転手の仕事に就くことが出来、数年後に、勤務時間がしっかり管理された、元の業種のお仕事に戻ることが出来ました。
8年経った今でも、私の話を聞いてくださったボランティアの方と、その方がお話しくださった方のことは、ずっと忘れることはありません。
そして、あの時突然の訪問にも関わらず、丁寧に対応してくださったことに感謝しかありません。
「あなたはアダルトチルドレン」その苦しみにはわけがあるんですよ。
今度は、私に限界が訪れました。
夫の鬱から、1年程経ち、無事にお仕事に就けたことに安堵したのもつかの間、夫も子どもも出掛けたある朝、無感情なのに涙がどんどんあふれてきました。
これまでの出来事や感情や思いがこみあげてきて、時系列はバラバラに、ただひたすらに目の前にあった広告の裏につらつらと書きつづり始めました。
幼少期の頃のこと、ずっと誰にも話したことがないことが、なぜか波のようにどんどんと押し寄せてくるのです。
遡り、書いている手が追いつかないほどでした。
それは結局、広告3枚分になりました。
書こうとも思っていないのに、なぜそんな風に書けたのかは、不思議でした。
限界だったんだな。。
そう、思いました。
どこに行ったら、この思いをうけとめてもらえるのか。。
なにもわからないまま、静かに、必死に、探しました。
そして、誰かに話したい。
聴いて欲しい。
インターネットで見つけた、アダルトチルドレン専門カウンセラー。
そこに書いてあることが、私そのものでした。
そして。
初めて、他者に自分の幼少時代からの環境と経験を話しました。
葛藤、怒り、悲しみ、よくわからないモヤモヤした気持ち。
父、母、兄のこと。
子どものこと、夫のこと、自分のことのこと。
はじめてのカウンセリング。
そこではじめて、自分がアダルトチルドレンであることを知ることとなります。
その男性カウンセラーは、
「声に出して読んでもいいですか」
そういって、3枚の広告の裏に書かれた、わたしの言葉を読んでくれました。
人生で初めて、ずっと押し隠してきた感情と思いを、誰かに受け入れてもらえた瞬間
でした。
心の中にずっと押し込めてきた、ドロドロとした汚い感情や子どものような怒り、感情のありのままを受け入れてもらえるという経験。
カウンセリングは一年程通い続け、終結しました。
生き方、人生がだんだんと変わりはじめました。
すぐにイライラすることがなくなり、辛く鬱鬱とすることも、だんだんとなくなっていきました。
何か起きても、その時の対処法を知ったことで、私を取り巻くすべてのものへの恐怖心
も消え、ざわざわとしていた心の中は、静かで穏やかです。
カウンセリングの中で、自分で自分の感情を解放してあげる方法や、インナーチャイルドとの関わり方を教えてもらえたことが、大きく私を変えていきました。
自分の状態を知り、教えてもらったワークを続けていくと、カウンセラーを頼りきっていた私も、だんだんと自分で自分を癒し、何か起きても、薬に頼らずに気持ちを安定させることが出来てきるようになりました。
そのような経験をした私は、どんどんと心理ワークへの興味が湧き始めます。
基本的な心理学を始め、様々なイメージワークを学び、自分に取り入れてみるということを長年繰り返してきました。
すると、だんだんと今までの答え合わせのように、するすると凝り固まった結び目がほどけていきます。
素直でいい。
そのままでいい。
~すべきは、なくていい。
どこか、常に”ぎゅっと”力を入れながら、肩肘をはって生きてきた私は、ありのまま、流れに逆らわずに生きる心地よさを手にいれたのです。
現在の、私のカウンセラーとしての活動と願い
私は今、自分の経験を活かし、過去の私のようにアダルトチルドレンで苦しんでいる方々のカウンセリングを行っております。
抑え込まれてしまっている感情が解放された感覚を今でもよく覚えています。
ぐちゃぐちゃな感情で支配されていても、どんなに現状が複雑でも、固くなった結びをほどくように、
問題は解決されていきます。
アダルトチルドレンの子どもはアダルトチルドレンと言われています。
そんな負の連鎖を、しっかり断ち切って欲しいという強い願いもあります。
そして、夫の鬱を通して、問題の複雑さを強く感じました。
家族ひとりひとりの問題にもしっかり向き合い、解決していかないことには、
本当の問題解決にはならず、そこはとても難しいと感じています。
イライラをぶつけて自分を責める毎日から「ありがとう」であふれる自分になる。
そんな願いをこめて、日々カウンセリングを行っております。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。